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企画展終了

開催日:2011年10月22日(土)~12月3日(土)

今日の反核反戦展2011

〈反核・反原発の旗を掲げよう〉  池田 龍雄(画家)

2011年3月11日、東北地方太平洋の沖合で、地球がちょっと身震いした。
地球にとっては、ほんのちょっとだが、人間にとっては‘ちょっと’どころではない、この上なく甚大な災害である。

自然の力というものは、本来そのようなものなのだ。
太古より、人間は自然をそのようなものとして畏敬し、その偉大な力を「恩恵」として受け取りながら、身の丈に合わせ、つつましく暮らしてきた。
その中で懸命に、芸術を創り続け文化を育て上げたのである。
それが、どこでいつ頃から道を違えたのか、自然を、己れの欲望とその果てしない拡大のために思うまま利用して憚らない、とする自分本位の反自然的方向に歩きだしてしまった。

近代ヨーロッパが、科学・技術を急速に発達させ、蒸気の力や電気の力を利用することを覚え、地球が数億年をかけて貯えたエネルギーを遠慮会釈なく掘り出し、それで機械を動かし、物を、より便利な物を、そして更に便利な物を、という具合に、資本主義制度の下、金儲けにつながる発明発見を貪欲に取り入れ、互いに熾烈な生存競争を繰り返しながら、遂に今日のエネルギー大量消費型科学技術万能文明を築き上げた。
今や、いわゆる先進国の多くの人々は、「自然」即ち我らすべての生きものを生み育ててくれているこの大自然への、感謝の心も畏怖の念も何処へやら、神も悪魔も顔負けの、便利で快適で贅沢な、しかし逆に危険が一杯のこの科学技術文明の中にどっぷり浸かっているのだ。

更に言えば、その生存競争の中での極悪の手段である「戦争」に勝つために、より一層効率よく人を殺し物を壊す武器を出現させたのも、やはり同じ科学技術に他ならない。
いや逆に、むしろ戦争が、つまり、新しい武器の開発や、勝つための戦略・戦術・作戦上の必要性が、科学技術の急速な発達を促した、と言うべきかも知れないが……。
電信、電話、そしてコンピューターによるIT技術の目覚ましい進歩、はたまた、地球上のあらゆる情報を瞬時にやりとりできるネットワーク、それら今日の恐るべき科学技術発展の裏には、殆ど戦争の影が付きまとっていると言っても過言ではあるまい。

だが、もっと恐るべきは、前世紀半ばのあの戦争が、遂に、禁断の領域とも言える原子の内部、その核が内包している膨大なエネルギーに目を付け、たった一発で大都市一つわけもなく壊滅させ得る威力を持った究極の爆弾を完成させたことだろう。

日本人であるわれわれは、既に勝利を確実にしていたアメリカが、殆ど「試験的」もしくは「威力を誇示するため」という程の理由で、それを「ヒロシマ」と「ナガサキ」に投下したことを断じて忘れるわけにはいかない。
あれは卑劣な不意打ち、一瞬にして数十万の無辜の市民を殺傷した史上最大のテロともいうべき残虐な行為であった。
にもかかわらず、戦後、そのような魔力を秘めた「核」を「平和的」に利用する、と称して「原子力発電」なるものが開発され、推進されたのである。

ヒロシマを経験したわが国としては、当然、それを拒むべきであった。
事実、心ある人々は断固として拒絶・反対に立ち上がったし、終戦直後、広島の惨状をこの眼で見て、核エネルギーの凄まじさを実感していたわたしもまたその一員だった。
「広島には向こう二十年放射能が残って草木も生えないだろう」と聞いた言葉が耳にこびりついていたからである。
如何に「平和利用だから」とはいえ、永久に死なない人間はいないのと同様、絶対に壊れない機械や装置などこの世にはありえないのだ。
むろん、自然現象に「想定外」もまたありえない。それなのに「安全です。絶対安全」と言いくるめるのは、当事者の自己保身のための無責任な嘘であり、ごまかしでしかないのは明らかであろう。

1960年代以降、原子力発電所の建設地とされた地元では、身近に危険を予知して激しい反対運動が起きた。
しかし、アメリカの世界戦略に乗ぜられてか、はたまたその後の電力需要の増大を見越してか、その両方合わせてか、いずれにせよ時の政府は、原発推進の政策をとって電力会社を後押しし、金をばらまいて反対運動を押さえ付けた。
わたしの見るところ、その構図は基地反対闘争の場合と全く同じである。その意味でも「原発」には、放射能の危険の後ろにまた別の危険が潜んでいると考えなければなるまい。

ところで、この度の事故で、放射能のこのような恐ろしさ――ひとたび崩れ出し暴れ始めたら、容易に人の手を寄せ付けないという、自然の奥底、原子核の内に秘められた恐るべき力――が、「ヒロシマ」から六十有余年を隔てた「フクシマ」で、再び白日の下に曝け出されたことになる。
これは、紛れもなく戦争と同列の人災である。
だから「反核・反戦」の旗を掲げたこの展覧会としては、これを機に、はっきりと「反核・反原発」すなわち、全ての核爆弾の廃絶と共に、全ての原発の廃止の声を上げるべきではないか。
その際、「では電力はどうするのか」などという、政治家や財界のお偉方のするような心配は無用だ。そのようなことに頭を悩ます前に、おのれ自身の生活を原発などはなかった頃に戻すことを考えればいいのである。

歴史を逆行させよという意味ではない。
当時も、人間は今と同じくしっかり生きていた。
無理に原子の領域にまで手を出したりしないでも、それでもまともに生きてきた。
だから、できない話ではない、そのような地点に素足で立って質素、謙虚に仕事をすればいいのである。

思うにそれこそが、われわれ美術に携わる者に可能であり且つ為すべき役割ではなかろうか。
また、それこそが、この大災害に遭遇した人々、なかんずく、原発事故によって二重の被害を蒙った人々と、深く心を通わし励まし合う道ではなかろうか。たとえ、長く遠い道であろうとも……

たぶん、去年あちらに旅立った針生一郎も、同じその道に立って声援を送ってくれるに違いない。

(2011年4月21日) 

●オープニングイベント 講演とパフォーマンス

日時:10月23日(日)午後2時
講演:池田龍雄(画家・「今日の反核反戦展2011」呼びかけ人)
パフォーマンス:奈良幸琥、佐藤誠抱、小林芳雄、フォークグループあじさい、山田裕子、+【南阿豆+濁朗】
当日の入館券をお持ちの方はどなたでもご参加いただけます。
※午後1時半に森林公園駅南口に送迎車が出ます。

●特別出品 平野亮彩

平野亮彩 劫火3.11 2011年

平野亮彩さんは2011年6月1日に88歳で逝去されました。生前、丸木位里と親しく、「東松山に来たら」と誘われたのがきっかけで、東松山に引っ越しました。この作品は3.11以降描いた作品です。どんな想いで描いたのでしょうか……。亡くなるまで位里・俊と同じく社会を見つめ、理不尽なことに怒り、絵を描いていました。この絵にも自分の最後の想いがこめられていると思います。
平野さんのアトリエは、いつも大きな絵で埋まり、私達が訪ねると絵のことを夢中になって話してくれたのを思い出します。

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