原爆の図保存基金に寄付する Donate
近年、ますます歴史的・社会的意味が大きくなり、国内外で高く評価されつつある 「原爆の図」。
しかしながら建物の老朽化や、展示室・収蔵庫の温湿度管理や紫外線・虫害・塵埃対策の未整備などの問題に直面し、絵画には深刻な影響が表れています。貴重な作品を、保存に適する環境で守っていくために、丸木美術館は2017年から「原爆の図保存基金」を立ち上げ、美術館改修と絵画修復のためのご寄付を募っています。
原爆の図保存基金に10万円以上のご寄付をいただいた方は、改修後の美術館の壁にお名前を掲示させていただきます。対象の方へは後日事務局よりご連絡いたします。
ご支援とご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
※原爆の図丸木美術館は公益財団法人です。当美術館へのご支援は、税額控除の対象となります。
任意の金額のご寄付を募集している「原爆の図保存基金」
郵便振替をご希望の方は、以下の口座にご入金ください
郵便振替 00260-6-138290
加入者名 原爆の図保存基金
・ご住所、お名前は読みやすい字ではっきりとお書きください。
・お名前にはふりがなをつけてくださるとたいへん助かります。
募金の中間報告
(2024年9月30日現在)
御寄付下さった方の件数 8,609件
合計金額 3億2,714万4,778円
応援メッセージ (50音順)
会田 誠 美術家
《原爆の図》は仮にそのイデオロギーを抜きにして、純粋に絵画として見ても、戦後日本美術の代表作であるだけでなく、特異点だと思います。あの時代、あそこまではっきりと国際社会に向けてアピールしようとした絵画作品は他になかったのではないでしょうか。あのサイズの巨大さと、連作を続ける執念からは、人類的使命感と個人的野心が渾然一体となった、アーチストとしての最良のエゴを感じます。また丸木夫妻(特に位里?)が、近代に作られた「日本画」というジャンルに属しながら、その花鳥風月的枠組みから大きくはみ出して行った点も興味深いです。
新井 卓 写真家
原爆に関する情報がGHQの検閲下にあった時代、丸木位里・俊は、みずから《原爆の図》を背負い、全国を行脚して広島の現実を伝えようとしたという。芸術とはなぜ、誰のために存在するのか──《原爆の図》は、わたしたちにそう問いつづけて止まない。美醜を超越した比類ない表現のみならず、日本の現代芸術の源流として、この作品を守り、世代を超えて引き継いでゆく責任が、わたしたちにはある。
安藤 榮作 彫刻家
我欲やエゴや策略が渦巻くこの世界にあって、愛が結晶化したものってそうそうない。《原爆の図》はまさしくその結晶だ。この大作の前に立つ者は、怒りや悲しみ、憤りや嘆きの嵐に翻弄され、そしてふと自分の内側深くに無条件の愛の灯が揺れていることに気付く。この50年、原爆の図はそうやって何千億という人達に愛の結晶をプレゼントし続けてきた。そしてこれからの50年、僕らにできることは原爆の図保存基金という僕らの愛の結晶を生み出すことだ。
石牟礼 道子 作家/詩人(故人)
「原爆の図」は人類が存続するかぎり、後世に伝えねばならぬ宝だと存じます。
丸木美術館のために浄財の積まれんことを、祈るばかりでございます。
二〇一七年八月一五日
岡原 真弓 オペラシアターこんにゃく座歌役者
数年前、丸木美術館でコンサートをさせて頂きました。この絵の前で歌いたい!と思い、一緒に歌ってくれる仲間を募り、お客様も含め130名の人々が美術館に集まりました。絵達は厳しく、しかし、優しく見守ってくれているようでした。真実は何かを、何が一番大切なのか教えてくれるような時間でした。この絵達を、空間を、未来につなげるのが、今、生きている我々の使命ではないでしょうか?私は友人が作った1枚100円以上で買って頂く丸木美術館が描かれたポストカードを売っています。目標5億円!皆さんも是非寄付を!
オクウィ・エンベゾー キュレーター/ハウス・デア・クンスト館長(故人)
《原爆の図》は、「戦後:太平洋と大西洋の間の美術1945-1965」展において、中心的な役割を果たした。歴史を理解するために、二人の芸術家の作品を保存し、未来の世代と共有する必要がある。
おしどり ケン 漫才師/記者
原爆の図の保存基金大賛成です!僕は2011年の原発事故の後マコちゃんの足手まといになりながら取材を続けています。事故前は社会の事はだれか任せにしていました。だから自分が無知だという事も分かりませんでした、情けないです。今も大勢の人の命を奪うための道具に大金が投じられています。知らないでは済まされない。どんな社会に生きたいか自分で考え決めるためにも。《原爆の図》を守りましょう!
おしどり マコ 漫才師/記者
「広島と長崎に原爆の落ちた日本だからこそ、被ばくの恐ろしさを分かっている日本だからこそ、福島第一原発事故の被ばくは問題ないと世界に発信することは効果的。セールスの良いモデルケースになる」原子力推進の国際シンポジウムを取材していて、この言葉を聞いたときクラクラしました!被害者が声をあげることは、次の被害者を無くすため。そうしなければ被害者は、未来の加害者になってしまう、と気付きました。原爆の図を守らなければ、私たちは未来への加害者になりますね。私は絶対に素敵な未来を作ってみせます!できることは全部やりたい!丸木美術館のみなさま、大切なプロジェクトに参加させて頂きありがとう存じます!
加藤 登紀子 歌手
今も、丸木美術館を訪れた日のことを忘れません。
壁一面 に叫びをあげる原爆の図、何枚もの絵に描かれた生々しい被爆の実像。その無数の声の前で歌ったあの日のこと、忘れません。
丸木夫妻の渾身の作品、力を合わせて守っていきましょう。
川崎 哲 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員、ピースボート共同代表
核兵器の非人道性に対して世界の国々が明確な認識をもったことが、2017年7月の核兵器禁止条約成立を導きました。同年末、ノーベル委員会は、核兵器の非人道性に注目を集め核兵器の禁止に貢献した市民の運動に対してノーベル平和賞を授与しました。この法規範に真の実効性を与えていくのは、私たち市民の力です。《原爆の図》を今こそ世界に広げ、一人でも多くの世界の人たちに見てもらいましょう。
窪島 誠一郎 無言館館主/作家
《原爆の図》を守るということは、人類の非戦への誓いと、平和への希いを守るということ。保存運動を応援します。
小沢 節子 近現代史研究者/『「原爆の図」 描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』著者
《原爆の図》は1945年の原爆被害を描いた絵画であるとともに、1950年から現在にいたるまで「同時代の戦争画」でありつづけた。それ故に、新たな地平を切り開き、様々な他者との出会いを私たちに促してきた。政治と芸術の狭間で翻弄されながら《原爆の図》が背負ってきた悲しみと苦痛が、いつか希望に生まれ変わることを信じて、未来へと手渡したい。次の長い航海のために箱船をつくろう。
小室 等 歌手
あれほどの個性と才能を持った者同士の合作など考えられようもないことなのに、なぜ位里先生と俊先生の合作はあり得たのだろうか。互いの表現を激しく受け止め合い、激しく否定し合うことから生じる厳しい批評性が、作品をさらに強固な芸術作品に高めたのかもしれないと、僭越にも思う。厳しくて優しかった俊先生、位里先生にお会いすることは叶わないけれど、残された作品を通して僕たちはいつでもお二人にお会いすることができる。
サーロー節子 被爆者/核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)
今から50年ほど前、私は、袖井林二郎先生や日本YWCAの関屋綾子会長らに連れられて、丸木美術館を二度ほど訪れました。質素な場所で、ちゃんちゃんこを着た丸木夫妻が迎えてくださり、囲炉裏で野菜の鍋を共につつきながらお話ししました。大きく圧倒的な「原爆の図」をみて私は感動しました。夫妻からは、「原爆の図」の最初のアメリカ巡回展では厳しい批判にさらされたということも伺いました。それでも信念を貫く夫妻の姿勢に、私は強く心を打たれました。
私は被爆者として、いつもできるだけ正直に、生々しい言葉を使って証言をしようと心がけています。しかし、言葉だけでは常に不十分です。私たち被爆者は、広島市や長崎市の協力も得て、視覚に訴えるパネルや資料を使って被爆体験を伝えてきました。言葉のみならず、あらゆる感覚を駆使して、全身全霊をかけて体験を語っているのです。そのような取り組みにおいて、丸木夫妻の「原爆の図」は非常に大きな力となっています。
このたびの保存基金を通じて丸木美術館が新しくより良いものとなることは、私たち被爆者の努力を前進させるための多大な貢献となります。心から応援しています。
坂田 明 ジャズサックス奏者
長い間、《原爆の図》の前で演奏することが夢でしたが、それがかなったのは2016年の8月6日でありました。絵は想像以上に凄くて仰天の連続でした。ただ食い入るようにみて絵の凄さの中なら湧き出てくる作者の人間としての思いとその在り方には敬服でした。サックスを吹いているどころではない有様でした。このような絵は何としても残してほしいと思います。人類に原爆も原発もいりません。正義を振りかざす必要はありません。大切なものは命です。戦争がなくても生き物は平等ではないし、天変地異は私たちを襲います。《原爆の図》はこれからもすべての人が見られるようであってほしいと願います。
椹木 野衣 美術評論家
原爆の図丸木美術館が50周年を迎えるという。もちろんめでたいことだが、他方では《原爆の図》のような歴史的・文明史な意義を持つ芸術が、国公立の美術館のように恵まれた展示・収蔵のための設備を持たぬまま、半世紀にも及ぶ時の経過に耐えてきたことに驚きもする。しかし、このままの状態で次の50年を迎えるのは極めて厳しくもあるはずだ。《原爆の図》を丸木夫妻が愛した土地で守っていくには、今がギリギリのタイミングなのだ。
ジョン・W・ダワー 歴史学者
未来の世代は、忘れ難い強烈なイメージから広島と長崎の原爆について学ぶ。丸木夫妻の共同制作は、そうした表現の中でも独自のカテゴリーに位置する。核の悲劇を複数の視点から描写するこの記念碑的な作品に匹敵するものはない。丸木夫妻の作品が、今日の私たちの存在を脅かす大きな危険を予感していたことには、とりわけ感銘を受けている。その脅威のひとつは、もちろん戦争であり、新たに起こり得る戦争である。 2つめは、現在米国政府が否定している気候変動、その中でも自然環境の破壊。3つめは、核による破滅だ。これは、米国政府の「核の近代化」という狂気の政策によって強化されている可能性があり、日本政府も支持している。丸木夫妻の偉大な作品は、過去の恐ろしい出来事だけでなく、現在と未来の問題にも声をあげている。できる限り多くの観客に共有されるよう叫び続けている。
高畑 勲 映画監督(故人)
丸木夫妻は本当の絵を描きたかった。感情に流されるようなシーンは抑制して、美を追求し、張り詰めたひとつの塊として観る側に訴えようとしたのだと思います。「原爆の図」を公開する私設の美術館が50年続いてきたことは、奇跡と呼ぶしかありません。丸木美術館を支援し、盛り立ててこられた皆さまに、心からの敬意を表する次第です。(2017年10月28日「丸木美術館開館50周年の集い」にて)
富山 妙子 画家(故人)
戦後に制作された《原爆の図》―丸木位里、丸木俊の作品は、戦争と原爆の悲しみ、核の脅威を伝えた世界的な文化遺産だと思い、この度の基金募集には賛成いたします。しかし、日本が過去の戦争を深く反省した視点に立ち、数世紀後の未来を考えた時、国立丸木美術館というイメージはいかがでしょうか。
奈良 美智 画家・彫刻家
太平洋戦争の終結から七〇年以上が経った。戦場での殺し合いは無くなったが、戦後は多種多様な社会問題が沸き起こった。その中で自分も含め多くの人々は生活していくことで精一杯になってきている。そして戦争へのリアリティは薄れていっているのではないだろうか。今どれくらいの想像力を持てば、アジア各地の戦争で変わり果てた風景や人々の生活を想像できるのだろうか。《原爆の図》は、まさに、あの爆弾が落ちてきたように悲惨な過去と現代を繋ぎ止め続けている。
ピーター・ファン・デン・デュンゲン 平和のための博物館国際ネットワーク総括コーディネーター
核兵器や戦争の廃絶という被爆者の願いは未だ実現していません。人びとが戦争の残酷な現実や核の脅威を深く認識し、抗議の声を上げ、核軍縮と戦争のない世界を目ざす国際的なキャンペーンに参加することが重要です。《原爆の図》は、意識、教育、行動のプロセスにおいて大きな役割を果たしています。多くの来場者にとって、この作品はすべての偉大な芸術のように、人生を変えるものです。
水沢 勉 キュレーター/美術史家
丸木位里さんと俊さんの《原爆の図》シリーズの第一部「幽霊」が完成し公開されたのが1950年。ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下から5年の歳月が流れている。それからさらに半世紀以上の時間が経過した。今度はわたしたちが作品を守り、未来に残すために努力する番である。
本橋 成一 写真家/映画監督
丸木美術館で位里先生と俊先生に出会ってから40年以上経った。生き生きとしたおふたりの暮らし、集う人びととの交流、その全てが《原爆の図》の制作と展示の源泉であったのだといま改めて思う。つまり、丸木美術館という場なくしては今日の《原爆の図》はないとも言えるのだろう。ぼくらに残された作品からは、いくつものメッセージが聴こえてくるようだ。おふたりが語り続けたメッセージ、これからはぼくたちが継がなければならないのだ。
山崎 佳代子 詩人
日本のゲルニカ、丸木夫妻の《原爆の図》は、祈りの図である。赤い空間から、静かな光の白い空間へ、逃れゆく人の列を描く《救出》。赤と白の境に、父親が赤子を抱き、あなたを見つめて立ち、列の後方には母と娘が正座し合掌する。世界の各地で戦火は止まず、難民となった人々の旅がつづく今日、丸木美術館は、あらゆる国境、言語、思想を越える聖所である。死者の美しい魂を歌う作品群を守ることは、私たちの課題にほかならない。
山本 唯人 東京大空襲・戦災資料センター主任研究員
寄付を呼びかけてみて、分かることがあります。論理と構想力と応援と仲間がそろってはじめて、何かを呼びかけることができる。これらの要素が全部そろう場所なんて、そうはありません。丸木美術館は民間で闘ってきたぼくらにとって灯台のような存在であり続けてきました。保存基金ができて、新館が立ち上がるまで。不安で押しつぶされそうになりながら、最高にわくわくしながら、このプロジェクトに立ち会っていたいと思います。
ジャン・ユンカーマン 『劫火 ヒロシマからの旅』映画監督
40年以上前に丸木美術館を初めて訪れた時、強烈な衝撃を受けました。原爆に関心を持っていて、広島と長崎へ行ったこともありましたが、《原爆の図》を見て、被爆の本当の姿を初めて見たと感じました。一人ひとりの人間にとっての被爆。その姿が私の脳に、心に焼き付いて、忘れたことがありません。私の人生を変えたと思います。これからも、原爆を投下した国の若い世代にも、同じように人生を変えられる衝撃を与えるために、《原爆の図》を永久に保存し、展示する必要があると思います。
吉永 小百合 俳優
「原爆の図 丸木美術館」に行きたいという願いが叶ったのは、2015年の11月。想像していた以上に、強い感動を覚えました。あの日、亡くなった人達の叫び、悲しみが胸に飛び込んで来たのです。美術館の絵を多くの方達に見て頂く為に、皆で力を合わせましょう!今、私達に出来ることは、丸木夫妻の絵をしっかりと受け止め、次の世代に伝えていくことです。