原爆の図The Hiroshima Panels

丸木美術館では《原爆の図》1部から14部を常設展示しています。
(第15部〈長崎〉は長崎原爆資料館が所蔵しています。)

原爆の図 制作風景

1945年8月6日、人類史上初めての原子爆弾が広島に投下されました。
その3日後の8月9日には長崎にも。
ふたつの原爆で亡くなったひとは20万人にも及び、その数は今日もなお増え続けています。

広島は位里のふるさとです。親、兄弟、親戚が多く住んでいました。
当時東京に住んでいた位里が知ったのは「広島に新型爆弾が落とされた」ということだけでした。
いったい広島はどうなってしまったのか。
位里は原爆投下から3日後に広島に行き、何もない焼け野原が広がるばかりの光景を見ました。
俊は後を追うように1週間後に広島に入り、ふたりで救援活動を手伝いました。

それから5年後、『原爆の図 第1部 幽霊』が発表されます。
数年間描きあぐねた「原爆」を、水墨画家の位里と油彩画家の俊の共同制作で、やっとかたちにすることができたのです。
はじめは1作だけ、その後は3部作にと考えていた「原爆の図」は、とうとう15部を数えました。

最後に〈長崎〉が描かれた1982年までの32年間、夫妻は「原爆」を描き続けたのです。

原爆の図 制作風景

第一部 幽霊

それは幽霊の行列。
一瞬にして着物は燃え落ち、
手や顔や胸はふくれ、
紫色の水ぶくれはやがて破れて、
皮膚はぼろのようにたれさがった。
手をなかばあげてそれは幽霊の行列。
破れた皮を引きながら力つきて人々は倒れ、
重なりあってうめき、
死んでいったのでありました。
爆心地帯の地上の温度は6千度、
爆心近くの石段に人の影が焼きついています。

だが、その瞬間にその人のからだは、蒸発したのでしょうか。
飛んでしまったのでしょうか。
爆心近くのことを語り伝える人はだれもいないのです。
焼けて、こげただれた顔は見分けようもなく、
声もひどくしわがれました。
お互いに名乗りあっても信じることはできないのです。
赤ん坊がたったひとりで、
美しい膚のあどけない顔でねむっていました。
母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。
せめてこの赤ん坊だけでも、
むっくり起きて生きていってほしいのです。

1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第二部 火

ピカッ。青白く強い光。爆発、圧迫感、熱風。
─天にも地にも人類がいまだかつて味わったことのない衝撃。
次の瞬間に火がついた。
めらめらと燃えあがり、広漠たる廃墟の静寂を破って、
ごうごうと燃えていったのでありました。
うつぶせて家の下敷きになったまま失心した人、
気がついて抜け出ようとして、
紅蓮の炎につつまれていった人。
ガラスの破片がざっくりと腹につきささり、
腕がとび、足がころがり、
人々は倒れ、 焼け死んでいきました。
倒れた柱の下敷きになり、子どもを抱いたまま、
母親は逃れ出ようとあせりました。
「早く早く」 「もうだめです」 「子どもだけでも」
「いいえ、あなたこそ逃げてください。
わたしはこの子と死にます。路頭にまよわすだけですから」
母と子は助け出そうとする人の手をふりきって、
炎にのまれていきました。

1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第三部 水

足の方を外側にして、頭を中心にして、死体の山がありました。
眼や口や鼻がなるべく見えないように積み重ねてあったのです。
焼き忘れられた山の中から、
まだ目玉を動かして、じっと見ている人がいました。
本当にまだ生きていたのでしょうか。
それともうじが入っていてそれで動いたのでしょうか。
水、水。
人々は水を求めてさまよいました。
燃える炎をのがれて、末期の水を求めて─
傷ついた母と子は、川をつたって逃げました。
水の深みに落ち込んだり、あわてて浅瀬へのぼり、走り、
炎が川をつつんであれ狂う中を水に頭を冷やしながら、
のがれのがれて、ようやくここまできたのです。
乳をのませようとしてはじめて、
わが子のこときれているのを知ったのです。
20世紀の母子像。
傷ついた母が死んだ子を抱いている。
絶望の母子像ではないでしょうか。
母子像というのは、希望の母と子でなければならないはずです。

1950年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第四部 虹

全裸のからだに軍靴と剣だけをつけた兵隊。
手を折り、足をつぶした若い兵隊。
病兵は、破れた皮膚に毛布をかぶって逃げまどいました。
音ひとつない、シーンと水を打ったような時間……
気の狂った兵隊が天をさして、
「飛行機だ、B29だ」と叫びつづける。
どこにも飛行機の影はないのです。
傷ついた馬が、狂った馬たちがあばれまわるのでした。
日本を爆撃にきたアメリカの兵士が、
捕虜になって広島の兵舎に入れられていました。
原爆は敵も味方もなく殺してしまいます。
二人の兵士は、手錠をはめられたまま、
ドームわきの路上に倒れておりました。
上空高くまで吹きあげられた煙とほこりが、
雲をよび、やがて大粒の雨となって、
晴天のまっただなかに降りそそいだのでありました。
そして暗黒の空に虹が出ました。
七彩の虹がさんさんとかがやいたのでありました。

1951年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第五部  少年少女

流れに沿い、頭を並べて水をしたい、
そうして累々とつらなり死んでおりました。
末期の水は、川辺までたどりついてもまだずっと下の方でしたから、
水ものまずに息を引きとったのです。

おとなたちの建物疎開の手伝いに
子どもたちが動員されたのです。
一クラス全滅、というクラスがたくさんあります。

かわり果てた姿で抱きあっている姉と妹。
からだにかすり傷一つないのに死んでいった少女もあります。

この絵をみて、
「わたしの娘はクラスでたった一人生き残ったのです。
けれど手はひっついて内側へまがり、
顔ものどもひっついてしまい、歩くことも出来ませんでした。
身体は十三才のそのときのまま成長しないのです」
と被爆した大工さんは話してくれました。

1951年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第六部  原子野

食べ物はなく
薬はなく、家は焼け、
雨にたたかれ、電灯はなく、
新聞はなく、ラジオはなく、医者もなく、
屍や、傷ついた人にウジがわき、
ハエが群生してむらがり、音をたてて飛びかっておりました。

屍のにおいが風に乗って流れました。
人々のからだが傷つくだけでなく、
心も深く傷つきました。

破れた皮膚をおおうことも忘れた人が、
わが子を捜して歩いていました。
来る日も来る日もさまよっておりました。

広島は、
今でも人の骨が地の中から出ることがあるのです。

1952年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第七部  竹やぶ

人々は竹やぶへのがれました。
地震ではない、だが何でしょう。
焼夷弾のかたまりでしょうか。
爆弾にはちがいない、いや、殺人光線だ。

なにしろ、ピカッとしてドーンとひびいたのです。
いいえ、広島ではドーンは聞こえませんでした。
あまりの大きさでしたから、ピカです。
「ピカの時にゃ」と話します。

広島の郊外には竹やぶがたくさんありました。
竹も片側が原爆でやけどをしていました。
家を失った人びとは、竹やぶへ逃れていったのです。
そうして次々と息を引きとっていきました。

「助けてくれ」と呼ばれても、助ける勇気はなかったのです。
もうこれ以上、わたしたちの家に収容しきれなかったのです。
三滝の橋の下は屍でいっぱいでした。

その中に、年もわからず、男か女か、
生きているらしいと思われる人がうずくまっていました。
八月二十六日の朝、頭を落として死んでいました。
原爆が落ちたのは八月六日でしたから、
二十日間、じっと耐えていたのです。

屍の片づけをする人もなく、九月に入って台風となり、
たくさんの屍たちは海へ流れていきました。

1954年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第八部  救出

いつまでも火は燃えつづけておりました。
ようやく身よりの人を捜して連れて帰りました。
けれど、途中でこときれていきました。

配給があるというので行列がつづきました。
乾パンを抱いたまま、娘は死んでいきました。

わたくしたちの妹のむこの両親は、
二人ともガラスの破片が全身にささっていました。
足首も、ももも、同じ太さにはれていました。
わたしたちのところに避難していましたが、
長男のところへ連れて行くことになりました。
荷車にのせて引いて行きました。
爆心地を通って海田市まで行きました。

しとしと、雨の降る日でした。
原爆のあと、広島ではよく雨が降りました。
八月というのに寒いような日が続きました。

本当は、「かあさんごめんなさい」といって逃げてきたんですと、
泣いている人がいます。

妻は夫を、夫は妻を、
親は子を捨てて逃げまどわねばなりませんでした。
救出がはじまったのはしばらくしてからのことです。

1954年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第九部  焼津

1945年、ひろしまに人類はじめての原爆が投下されました。
続いて長崎にもう一発
そうして、ビキニ環礁で人類初の水素爆弾が爆発しました。

久保山愛吉さんが亡くなりました。
日本人は三度、原爆水爆の犠牲となったのです。

【後記(1983年5月)】

日本人ばかりではありませんでした。
ビキニ環礁の近くのミクロネシアの人びとは
水爆の死の灰をかぶりました。

島全体が汚染されてしまいました。
島を追われた人びとが、生まれ故郷ビキニへ帰った時、
残留放射能を受けてガンや白血病で倒れ、
傷つき、今も苦しんでいるのです。

焼津とビキニ。
それは宿命の兄弟となったのです。

1955年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第十部 署名

原爆やめよ、
水爆やめよ、
戦争やめよ。

東京杉並のお母さんたちの呼び声は
日本中にひろがりました。
こどもも、お母さんもお父さんも年よりも、
ありとあらゆる職場の人が署名しました。

民衆の声なき声が声となり、
このように平和を求めるたくさんの署名が集まったのは、
はじめてのことでした。

1955年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第十一部 母子像

家の下敷きとなり、燃えさかる中を、
親は子を捨て、子は親を捨て、
夫は妻を、 妻は夫を捨てて
逃げまどわねばなりませんでした。

それがほんとうの原爆の時の姿なのです。
だが、そうした中で不思議な事に
母親が子供をしっかりと抱いて、
母は死んでいるのに子供が生きているという、
そんな姿をたくさん見ました。

1959年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第十二部 とうろう流し

8月6日、広島の七つの川はとうろうであふれます。
父の、母の、妹の名をしるして流すのです。

流れ終わらぬうちに潮は逆流し、
あげ潮にのって、とうろうはもどってきます。
火はすでに消え、
折り重なって暗い流れにただよいます。

それはあの時、
屍に満ちて流れた川と同じ太田川なのです。

1968年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第十三部 米兵捕虜の死

あなたの落とした原爆で
わたしたち日本人は三十数万死にました。
けれどあなたの原爆で
あなたのお国の若者も二十三人死んだのです。

ひろしまに原爆が投下される前に日本爆撃にきたB29から
落下傘で降下した米兵を捕虜にしてあった。
女の捕虜もいたという。
米兵捕虜の最後の姿は、
どんな着物だったろう、どんな靴であったろう。

ひろしまを訪ねて驚きました。
爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちは
やがて死ぬかもしれません。
いや、或いは生きたかもしれないのです。
けれどその前に
日本人が虐殺しているということを知りました。

わたしたちは震えながら
米兵捕虜の死を描きました。

1971年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第十四部 からす

韓国・朝鮮人も日本人も同じ顔をしています。
被爆したむざんな姿はどこで見分けることが出来ましょう。

『原爆がおちゃけたあと、
一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。
日本人はたくさん生き残ったが
朝鮮人はちっとしか生きの残らんぢゃったけん。
どがんもこがんもできん。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。
朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』
(石牟礼道子さんの文章より)

屍にまで差別を受けた韓国・朝鮮人。
屍にまで差別した日本人。
共に原爆を受けたアジア人。

美しいチョゴリ、チマが。
飛んで行く朝鮮、ふるさとの空へ。
からす完成、謹んでこれを捧げます。
合掌。

長崎の三菱造船に強制連行された
韓国・朝鮮人約五千人が集団被爆しました。
ひろしまにも同じような話があります。

今、韓国だけでも一万五千人近くの被爆者が
原爆手帖さえなく暮らしているのです。

1972年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m

第十五部 長崎

長崎原爆資料館所蔵

めざしていた小倉は、
厚い雲におおわれていました。

B29 2機は、第2目標の長崎の港にまわりました。
ここも視界が悪いため、
街の中心をはずれた 三菱製鋼に
原子爆弾を投下したのです。

それは、浦上カソリック教会の頭上で炸裂しました。
ちょうどその頃、礼拝にきていた信者さんたち、
神父さんも亡くなりました。
天主堂を中心として、
死者は輪になって延々とひろがり増えていきました。

長崎の原爆はプルトニウムというものを材料としていて、
広島より強力なものでありました。

もう一発の原爆。
打ちくだかれた長崎。
14万人が死にました。

1982年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m