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丸木位里と丸木俊についてIri and Toshi Maruki

丸木位里・俊

丸木 位里 (まるき・いり 1901–1995)

丸木位里は、1901年6月20日に広島の太田川上流の船宿兼農家に生まれた。戦前には前衛的な美術団体である歴程美術協会や美術文化協会に加わり、抽象やシュルレアリスム(超現実主義)を取り入れた独自の水墨画を発表して高い評価を受けた。1941年に油彩画家の赤松俊子と結婚。1945年に広島に原爆が落とされた時には、数日後にかけつけ、その様子を目撃した。やがて夫婦共同制作で《原爆の図》の制作に取り組み、30年以上の歳月をかけて15部の連作を完成。その一方で風景を中心としたスケールの大きな水墨画を数多く残している。1995年10月19日永眠、享年94歳。

丸木 俊 (まるき・とし 1912–2000)

丸木俊(赤松俊子)は、1912年2月11日に北海道秩父別の善性寺に生まれた。女子美術専門学校(現・女子美術大学)で油絵を学び、その後、モスクワ、ミクロネシアに滞在。 油絵やスケッチを多数描き、二科展に入選した。1941年に水墨画家の丸木位里と結婚。戦後は《原爆の図》をはじめ《南京大虐殺の図》、《アウシュビッツの図》、《水俣の図》、《沖縄戦の図》など 社会的主題の夫婦共同制作を発表している。また、すぐれた絵本作家としても知られ、『ひろしまのピカ』、『つつじのむすめ』などの絵本は今も多くの人に読み継がれている。2000年1月13日永眠、享年87歳。

丸木位里・丸木俊年譜

  • 1901年6月
    位里、広島県安佐郡飯室村(現広島市安佐北区)に生まれる
  • 1912年2月
    俊、北海道雨竜郡秩父別村(現秩父別町)に生まれる
  • 1919年
    位里、大阪に出て精華美術学院で図案を学ぶ
  • 1923年
    位里、上京し田中頼璋の天然画塾に学ぶ
  • 1928年
    位里、第13回広島県美術展覧会に初入選
  • 1929年
    俊、上京し女子美術専門学校(現女子美術大学)に学ぶ
  • 1933年
    俊、女子美術専門学校を卒業し、千葉県市川市の小学校で代用教員となる
  • 1934年
    位里、上京し落合朗風の明朗美術研究所に学ぶ
  • 1936年
    位里、上京し船田玉樹、靉光らと交流。第8回青龍社展に初入選
    11月、船田玉樹、靉光らとともに第1回藝州美術協会展を開催
  • 1937年
    俊、一等通訳官の子どもの家庭教師としてモスクワへ赴任
  • 1938年
    位里、歴程美術協会に参加
    俊、東京都豊島区のアトリエ村に入居
  • 1939年
    俊、3月に銀座紀伊國屋画廊で初個展開催。9月、第26回二科展初入選
    位里、10月に紀伊國屋画廊で丸木位里・舩田玉樹展(第1回丸木位里個展)開催
  • 1940年
    俊、1月から半年間「南洋群島」に滞在
    位里、3月に美術文化協会に参加
    9月、位里と俊が初めて対面する
  • 1941年
    俊、1月から半年間モスクワ公使の子どもの家庭教師として再びモスクワ赴任。5月ごろ帰国
    位里、俊、7月に結婚、アトリエ村で生活
    12月、太平洋戦争勃発
  • 1945年
    8月、広島と長崎に原子爆弾投下。丸木夫妻、被爆後の広島を訪れ、約1ヵ月滞在。帰京後、日本共産党に入党
    9月、第2次世界大戦終結。占領軍によるプレスコード発令
  • 1946年
    4月、丸木夫妻、日本美術会結成に参加。この頃よりアトリエでデッサン会を開催
  • 1947年
    5月、丸木夫妻、前衛美術会結成に参加
    6月、俊、女流画家協会に参加
  • 1948年
    7月、丸木夫妻、神奈川県片瀬に転居
  • 1950年
    2月、第3回日本アンデパンダン展に《八月六日》(のちの原爆の図第1部《幽霊》)出品
    3月、日本橋丸善画廊で原爆の図展開催、《幽霊》《夜》を出品
    6月、朝鮮戦争勃発
    8月、日本橋丸善画廊と銀座三越で原爆の図三部作完成記念展開催。原爆の図第2部《火》、第3部《水》初出品。絵本『ピカドン』刊行
    10月、広島・五流荘で原爆の図三部作展覧会開催。原爆の図全国巡回展開始
  • 1951年
    原爆の図三部作再制作版を制作
    7月、京都綜合原爆展に原爆の図第4部《虹》、第5部《少年少女》発表
  • 1952年
    4月、サンフランシスコ講和条約発効。青木書店より画集『原爆の図』刊行
    8月、『アサヒグラフ』で特集「原爆被害の初公開」。今井正・青山通春監督による映画『原爆の図』(新星映画社)撮影開始、翌年公開
    11月、東京都練馬区谷原に転居
  • 1953年
    1月、丸木夫妻、世界平和評議会より国際平和賞受賞
    2月、第6回日本アンデパンダン展に原爆の図第6部《原子野》出品
    6月、俊、デンマークのコペンハーゲンで国際婦人会議に参加。原爆の図世界巡回展はじまる
  • 1954年
    3月、アメリカのビキニ水爆実験により第五福竜丸が被爆
    毎日新聞社主催の第1回現代日本美術展に原爆の図第7部《竹やぶ》招待出品
  • 1955年
    2月、第8回日本アンデパンダン展に原爆の図第8部《救出》出品。第3回ニッポン展に原爆の図第9部《焼津》出品
    8月、第1回原水爆禁止世界大会開催
  • 1956年
    第9回日本アンデパンダン展に原爆の図第10部《署名》出品。
    10部作完成を機に「原爆の図国際運営委員会」によって世界巡回展
  • 1959年
    《原爆―火》、《原爆―水》を高野山成福院に奉納
    5月、毎日新聞社主催の第5回日本国際美術展に原爆の図第11部《母子像》が招待出品
    6月、虹書房より画集『原爆の図』刊行
  • 1964年
    日本共産党内の12名連名で党改革の意見書を提出。除名される
    原爆の図が日本に戻る
  • 1965年
    3月、千葉県松戸市に転居
  • 1966年
    12月、埼玉県東松山市に転居
  • 1967年
    5月、埼玉県東松山市に原爆の図丸木美術館開館
    7月、田園書房より画集『原爆の図』刊行
    8月、宮島義勇監督の映画『原爆之圖』完成
  • 1968年
    6月、第1回創展に原爆の図第12部《とうろう流し》出品
  • 1970年
    10月、「原爆の図」8部作のアメリカ巡回展はじまる
    翌年にかけて8会場を巡回
  • 1971年
    7月、第4回大河展に原爆の図第13部《米兵捕虜の死》出品
  • 1972年
    8月、第5回大河展に原爆の図第14部《からす》出品
    9月、新潟BSN美術館にて新潟日報社主催「原爆の図展」。丸木美術館より画集『原爆の図』刊行
  • 1973年
    3月、広島市の依頼により《ひろしまの図》制作、広島平和記念資料館に寄贈
  • 1976年
    3月、第2回人人展に《南京大虐殺の図》出品
  • 1977年
    3月、第3回人人展に《アウシュビッツの図》出品
  • 1978年
    「原爆の図」がフランス各地10会場を巡回
  • 1979年
    3月、第5回人人展に《三国同盟から三里塚まで》出品
    ブルガリアの「第3回反ファシズム・トリエンナーレ国際具象展」で特別賞受賞、ブルガリア国立美術館に寄贈
  • 1980年
    3月、第6回人人展に《水俣の図》出品
    6月、俊、絵本『ひろしまのピカ』刊行
  • 1981年
    2月、映画『水俣の図・物語』(土本典昭監督)完成
    3月、第7回人人展に《水俣・原発・三里塚》出品
  • 1982年
    5月、ブルガリアの第4回反ファシズム・トリエンナーレに原爆の図第15部《長崎》招待出品
  • 1984年
    3月、第10回人人展に《沖縄戦の図》出品
    6月、映画『命どぅ宝—おきなわ戦の図—』(前田憲二監督)完成
  • 1985年
    3月、第11回人人展に《地獄の図》出品
    5月、第5回ブルガリア・反ファシズム国際具象展で特別賞受賞
    8月、講談社インターナショナルより『THE HIROSHIMA MURALS』刊行
  • 1986年
    3月、映画『劫火―ヒロシマからの旅』(ジャン・ユンカーマン監督)完成
    7月、第1回臥竜展に《原爆-高張提灯》、《沖縄戦-きゃん岬》、《沖縄戦-ガマ》出品
  • 1987年
    3月、第13回人人展に読谷三部作《チビチリガマ》《シムクガマ》《残波大獅子》出品
    7月、第2回臥竜展に足尾鉱毒の図第1部《足尾銅山》、第2部《押し出し》出品
  • 1988年
    3月、第14回人人展に足尾鉱毒の図第3部『渡良瀬の洪水』、第4部『直訴と女押し出し』出品
    3月、マサチューセッツ州立芸術大学付属ノースホールギャラリーにて「Surviving Visions」展
    4月、マサチューセッツ芸術大学名誉博士号授与
  • 1989年
    3月、第15回人人展に足尾鉱毒の図《谷中村野焼き》《大逆事件》出品
  • 1992年
    7月、広島市現代美術館で「丸木位里展」開催
  • 1994年
    11月、沖縄・宜野湾市に佐喜眞美術館が開館
  • 1995年
    ノーベル平和賞にノミネートされる
    6月、池田20世紀美術館で「丸木位里・丸木俊の世界」展開催
    10月、位里が死去
  • 2000年
    1月、俊が死去
    3月、韓国・光州ビエンナーレに原爆の図第14部《からす》、《南京大虐殺の図》出品
  • 2001年
    5月、女子美術大学ガレリアニケで「丸木俊展」開催
  • 2002年
    10月、韓国・ソウルの仁寺洞アートプラザにて「原爆の図展」開催
  • 2005年
    9月、中国・北京の中国美術館にて「原爆の図」展示
  • 2012年
    10月、一宮市三岸節子記念美術館で「生誕100年 丸木俊展」開催
  • 2015年
    6月、ワシントンDC、ボストン、ニューヨークにて「原爆の図」巡回展
  • 2016年
    10月、ドイツ・ミュンヘンのハウス・デア・クンスト「戦後―太平洋と大西洋のあいだの美術1945-1965」展に原爆の図第2部《火》、第6部《原子野》出品
  • 2018年
    3月、ベルナール・ビュフェ美術館にて「絵画と想像力 ベルナール・ビュフェと丸木位里・俊」展開催
    9月、広島市現代美術館にて「丸木位里・俊―《原爆の図》をよむ」展開催
  • 2019年
    5月、アーサー・ビナードが「原爆の図」を再編集し独自の物語をつけた新作紙芝居『ちっちゃい こえ』(童心社)を刊行
    10月、丸木美術館より新画集『原爆の図 丸木位里と丸木俊の芸術』刊行
  • 2020年
    4月、広島県三次市の奥田元宋・小由女美術館で「丸木位里の宇宙」展開催、一宮市三岸節子記念美術館、富山県水墨美術館を巡回