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共同制作Collaborative Works

丸木夫婦

「原爆の図」は初期3部ができあがってから、日本中の、 世界中のたくさんの場所に旅をしました。

別の人の手に託されることも多くありましたが、丸木夫妻も絵と一緒に旅に出ました。
いろいろな場所へ行き、いろいろな人に出会い、いろいろな話を聞きました。

そうして「原爆の図」は15部まで描かれることになったのですが、それだけではありません。


たとえばフランスで、丸木夫妻は水俣病のことを聞きました。
それが公害病だとは知っていても、詳しいこととなるとよく分かりません。
丸木夫妻はその後、水俣を訪ねてその地の人々―患者さんや家族―と出会い、『水俣の図』を描きました。

たとえばアメリカで、丸木夫妻は南京大虐殺のことを聞きました。
アメリカで「原爆の図」の展覧会を開いてくれたひとが
「もし中国人の画家がやってきて『南京大虐殺の作品展をやりたい』と言ったらどうしますか。
私たちがやっている「原爆の図」展はそういうことなのです」と言ったのです。

丸木夫妻は中国人の画家が持ってこないのなら、といって「南京大虐殺の図」を描きました。

アウシュビッツも訪ねました。
成田空港がつくられたときにはそこで暮らしていた農民たちに出会いました。
原爆と同じ被害をもたらすかもしれない原子力発電所には市民と一緒に反対しました。

今、原爆の図丸木美術館には「原爆の図」だけでなくこれらの大きな共同制作が展示されています。
ここに描かれているのはすべて、人間が人間に対して行った暴力の様です。
戦争と同じく、やはり繰り返してはならないことなのです。

南京大虐殺の図

(一九七五年)

400×800(cm)

1970年に原爆の図を持ってアメリカに渡りました。
ロサンゼルスの近くの
カリフォルニア州立工科大学に行ったときのことです。

「例えば中国人の画家が、
日本が行った南京大虐殺という絵を描いて日本へ持って行ったら、
あなたはどうなさいます。
それと同じことです。
アメリカが行った、ひろしま、ながさきの大量虐殺の絵を
日本人画家が描いてアメリカへ持ってきています。
わたしたちがその展覧会をしています」
と、ある大学教授はいいました。

ちょうどそのころはベトナム爆撃が盛んに行われていました。
ソンミの虐殺もそのころでした。
戦争反対の「原爆の図」をアメリカで展覧することは
たいへんなことでありました。

わたしたちはアメリカで南京大虐殺のことを聞こうとは
夢にも思いませんでした。
捕虜5万、非戦闘員35万人。
1937年、日本侵略軍に虐殺された人びとは、
南京だけで、広島長崎の犠牲者に匹敵する大量虐殺であります。
略奪、放火、強姦、最後にはすべて殺害して捨てたのです。
ありとあらゆる惨劇がくりひろげられたのであります。

アウシュビッツの図

(一九七七年)

340×1610(cm)

ワルシャワに飛び、乗りかえてクラコフに着く。
1泊してタクシーで西へ走る。
淡い緑の起伏。草原か、麦畑か。
チェコスロバキアとの国境近く、この地帯は少し低い。
アウシュビッツはドイツの言葉。
ポーランド語でオシフェンツムと呼んでください。
やさしげな若者は言いました。

ヒットラーの命令で、ヨーロッパの29ヶ国から集めて運ばれたユダヤ人、
アウシュビッツだけで400万人が殺されました。
はじめは機関銃で、
一度にもっと大量にと、毒ガスに変わったのだという。

ガラスを取られた眼鏡の山が展示されていました。
髪の毛の山がありました。
金髪、栗毛、白髪。
その中に赤いリボンをつけた子供の髪がありました。

人間の髪で作った織物が飾ってありました。
当時のヒットラー政府は、ドイツの家庭に配給したという。
ギプス、杖、靴の山。
これらをはぎとられた人はガス室に入れられたのです。

ふりだした雨は、たちまち、しとどに濡れて流れ、
処刑台、首つり台のあたりは早や、
夕暮れせまるにぶい明るさの中に包まれていました。

水俣の図

(一九八〇年)

270×1490(cm)

「水俣は遠いアジア日本のことではない。
ブルターニュが危ない。
バスクが危ない」

水俣のことを教えてください、
とフランスで言われました。
帰国してすぐに水俣へ行きました。
戸をあけた時、若い娘さんが発作を起こしていました。
「早く、タオルを」
と、母親が呼んでいます。
発作のため、ひざとひざがすれ合って皮がむけ、
血が出る、というのです。

その娘さんは目鼻だちよく、
黒髪が苦しげに汗にぬれていました。
弓のようにのけぞってあえぎながら新しい客を見ています。
わたしたちは描くこともならず、
失礼を心にわびながら立ちすくんでいました。

水俣チッソ工場がたれ流した廃液の水銀を魚が食べ、
猫が食べ、人間が食べ、魚や鳥やたくさんの生物たちが
病み苦しみ死んでいったのです。

この家では、母親は軽い水俣病にかかっていました。
母親の胎盤を通した水銀に毒されて、
重傷の娘が生まれました。
生まれながらの水俣病患者になっていたのです。

認定患者2200人、申請患者18000人の苦しみは
今も続いているのです。
不知火の海が逆行に美しく輝いていました。
海のまわりの町や村や、
島々で、たくさんの人が死に、
10万人を越える人びとに悪い影響を及ぼしていることを、
この澄んだ水に淡い島影を浮かべる
美しい風景は物語ってくれません。

沖縄戦の図

(一九八四年)
沖縄・佐喜眞美術館所蔵

400×850(cm)

庭にシートを敷き、その上に毛布を10枚ほど広げて
大型の和紙を4枚並べると、
4メートルに8メートルの大きな画面が出来ました。
紙の上に座って描きはじめる。
ひざの下から沖縄のさんご礁の岩。
石灰岩の破片の凹凸が痛い。
さっき片づけていた時、やっきょうを一つ拾った。
ここは首里。激戦地だったのです

ここに命を落とした人人の思いがしみて
石からひざへと伝わってくるのでしょうか。
はるばるここに来て、ここに座って描かねばならないのです。
空、風、水、土、草、鳥、
みんなが黙ってわたしたちの筆を動かしてくれるのです。

紺碧の海の色はどうしても描きたい。
エメラルドをオレンジに染めて、さんご礁に沈んだ娘たち。
紅は、朱は、若ものの血潮か。
逃げまどう人人を追う炎か。
どちらに見ていただいてもいいではないか。

撮影班の方が空から画面を写してぐるりと
廻転してみせて下さった。
描かない斜めの空間が見事であった。
描くばかりが能ではない。
この空間を生かさねば、
はやる心を抑え押さえて空間を残しました。
けれど、まわりを描き進むうちに
そのまま残すことは困難となりました。

逆さに落ちてくる。
娘はスパイ容疑のごうもんに狂い、
日本兵の竹槍によって命を落としました。
白い空間に娘を描き込む時の恐ろしさ。

一人は立ち、一人はうつむき、一人は座っている。
三人の子供は、生きている。
ただそれだけで画面はぴしりときまりました。