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「砂守勝巳写真展 黙示する風景」再開へ

6月9日に展示を再開し、8月30日まで会期を延長することになった「砂守勝巳写真展 黙示する風景」
娘の砂守かずらさんが、『丸木美術館ニュース』第141号(2020年4月発行)に寄せてくださったエッセイをご紹介します。
 

椹木野衣さんと砂守かずらさんのオープニングトーク


絶えず目を醒まし祈り続ける

 父、砂守勝巳が亡くなって11年が経つ。遺言のような手紙には「かずらが写真を管理して発表するならいいが、誰かに全部を渡してしまうなら何もするな」と書かれていた。
 何をどうすればいいのか……。通信教育で学芸員課程があることを知り、武蔵野美術大学に入学した。これまでまともに勉強をしてこなかったから、参考文献を読むだけで時間がかかってしまい、レポートを書くのにも苦労した。
 父は末期癌だったが、抗癌剤治療の間一度も辛そうなところを見せなかった。気持ち悪さや痛みなど無い素振りで、病院に見舞う母や私に冗談を言って笑わせてくれた。日に日に痩せていく身体も、リンパが滞って太く浮腫んだ足も、顔を覗き込んだ時に見える目の黄疸も、父の元気な振る舞いによって死が近いことを感じさせなかった。
 毎日象みたいな足を引きずり、歩くリハビリをする。
「前みたいに歩けなくなったら、カメラの一脚を杖代わりにして撮影に行こう!」とニコニコ笑っていた。
 亡くなる2週間くらい前から時々酸素マスクやモルヒネを使うようになった。リクライニング式のベッドは寝るときも上げたままだった。
 後から考えると、モルヒネで痛みを和らげベッドに横たわることで体が楽になり、そのまま死ぬと思ったのだろう。一日中座ったままの状態は、楽=死への抵抗だった。
 入院中、父が一度だけ泣いたことがある。「まだ撮りたい写真が残っているんだ……」
 父が生きていたら撮ったであろう写真はもう撮れない。けれど、死ぬ瞬間まで生きようとした父の姿を見てから自分の小さな欲がどうでもよくなった。自分のことよりも父の作品を一人でも多くの人に知ってもらおう、と。

 この11年間は父の生き方に支えられている。辛く、痛く自由が制限されていても最期の瞬間まで希望を失わないこと。私も、誰にも気づかれず評価されなくても学び続け伝え続けようと思った。
 学芸員の勉強をしているうちに、展覧会企画のHow-toだけでは足りないと思うようになった。
 父の作品を展覧会にすることは、私の表現であるともいえるのではないか?
 そのような思いから、京都造形芸術大学院の芸術学課程(芸術環境研究領域)に入学した。
 大学院での参考文献はさらに難解になったが、得た知識で思考することで頭の中はどんどん自由になった。同じ作品を見ても前とは違った角度から見えてくる。しかし父の多様な写真に通底する見えない何かがあるのに、私には見えそうで見えない。ジャーナリズムと一言でカテゴライズできない何かがある。
 大学院の修士論文のテーマは『黙示の町』という長崎・雲仙普賢岳噴火の被災地を撮影した作品の考察で、父のそれぞれの作品に一貫して流れる “見えない何か” を見出そうとする試みだった。やはりここでも自分の力は及ばず今後の研究に譲る形で論文を結んでしまった。一人では無理だ。
 もがき続けた月日だったがいつも孤独だったわけではない。その時々で助言や手助けをしてくれた数限りない人達がいる。時間を割き労力を惜しまず協力してくれた人達と積み重ねてきた日々は財産だ。
 そして、美術批評家の椹木野衣さんとの出会いにより丸木美術館の『黙示する風景』ができあがった。戦争や貧困・自然災害などによる離散や苦難を見つめることは、過去を知りどのように生きるかを考えることでもある。新たな疫病に対峙するたった今、展覧会を開催できたことは “父の作品を知ってもらう〟以上の問いの場として意義あることではなかったか。
 私にとってのこれまでは、父の命に対する哀悼や鎮魂の意味を持っていた。これからは、父の作品を通して絶えず目を醒まし祈り続けるだろう。『黙示する風景』に関わる全ての人に感謝を込めて。

砂守かずら(砂守勝巳写真事務所)

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