施設案内Gallery Grounds and Buildings
1. 丸木美術館 2. 原爆観音像 3.八怪堂 4.宋銭堂 5.痛恨の碑 6.野木庵 7.流々庵 8.母屋(非公開) 9.都幾川
1.丸木美術館
1階展示室
「原爆の図」の第9部《焼津》〜14部《からす》が常設展示されています。太平洋ビキニ環礁での米軍水爆実験による第五福竜丸の被爆や、原水爆禁止の署名運動、米兵捕虜や朝鮮人の被爆問題を描いた作品は、原爆や戦争をどのように見つめてきたかという戦後日本社会の歩みにも重なります。
また、新館ホールには、丸木夫妻が新たな主題で描いた《アウシュビッツの図 》、《南京大虐殺の図》、《水俣の図》、《水俣・原発・三里塚》という4点の大きな壁画が互いに向き合うように展示されています。
企画展示室では、1年に4~5本程度の企画展を開催しています。現代の戦争や社会問題を表現する幅広い世代の芸術家の紹介や、丸木位里、丸木俊、丸木スマの作品展などを企画しています。
2階展示室
丸木位里、丸木俊の共同制作「原爆の図」の第1部《幽霊》〜第8部《救出》が 常設展示されています。原爆投下後の広島の惨状を描いた屏風画は、時間と空 間を超えて、鑑賞者に人間の痛みの記憶を伝えます。
また、アートスペースでは、丸木位里の母親で70歳を過ぎて絵を描き始めた丸木スマの作品などを、ときどき展示替えをしながら紹介しています。スマは、身近な生き物や花、野菜などを、あふれるような色彩で伸びやかに描きました。
小高文庫
小高文庫は、武州松山本陣小高家(現在の埼玉県東松山市本町)の書庫で、1970年に地元の有志が丸木夫妻との交友の証として寄贈したものです。
丸木夫妻はこの和室をアトリエ兼書斎として長く愛用していました。江戸時代の面影を残す太い梁、窓からは四季折々の豊かな自然を眺めることができ、現在は美術館の図書室兼休憩室として多くの来館者に愛されています。
部屋の一角には丸木夫妻の愛用品も展示され、二人の著作や画集、絵本 、資料なども閲覧することができます。
2. 原爆観音堂
丸木美術館の前庭にある原爆観音堂は、広島市三滝町で被爆した丸木位里の実家の建物の一部を、1970年に現在の場所に移築して建立したものです。
三滝町は爆心地から約2.6キロメートル。爆発の瞬間、家が傾き、屋根が飛んだそうです。堂内に安置されている観音像も、もとは広島の観音堂に安置されていたものです。
毎年、多くの方から色とりどりの千羽鶴が寄せられます。風雨にさらされて見えにくくなっていますが、堂内には詩人・ 峠三吉による「原爆の図」の詩も飾られています。
3. 八怪堂
丸木美術館入口の向かいにある八怪堂は、1982年5月5日、丸木美術館創立15周年開館記念日に除幕・披露されました。前年に丸木夫妻が中国各地を旅行していたため、「揚州八怪」(揚州出身の八人の個性的な画家)にちなんだ「芸州八怪」という丸木位里の書が飾られています。
芸州とは広島の古い呼び名で、広島の『原爆の図』を展示している美術館であるため「芸州八怪」としたそうです。
堂内には丸木位里がその由来を書き記した木額が飾られています。八怪堂は来館者のための休憩所や、催し物の舞台などに使われています。
4. 宋銭堂
丸木美術館の駐車場奥にある宋銭堂は、1972年12月の水道敷設工事のときに美術館敷地内から出土した5万枚の宋銭(開元通宝、景炎通宝)を供養するため、1979年1月に建立されました。
宋銭堂の前には、丸木位里の書による丸木スマの言葉「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」の石碑が建てられています。
5. 痛恨の碑
丸木美術館駐車場の奥、宋銭堂の隣に立つ痛恨の碑は、1923年の関東大震災の後に、東京から埼玉に逃れてきた朝鮮人が流言蜚語により虐殺された事件を悼み、1986年に建立されました。
その頃丸木夫妻は『沖縄戦の図』を描くために毎年のように沖縄を取材に訪れており、日本軍に虐殺された久米島住民と朝鮮人の名前が刻まれた「痛恨の碑」を知り、それにならってこの碑を建てたのです。碑に刻まれた文字は丸木位里の書で、裏面には由来が紹介されています。
6.野木庵
1970年に栃木県野木町から移築した古民家で、かつては屋根が茅葺きでした。丸木夫妻が来客たちと飲食を共にする場となっていました。
7.流々庵
1977年に東京から移築した木造茶室です。日当たりの良い空間は、丸木夫妻の晩年のアトリエでした。
8.母屋(非公開)
丸木夫妻が暮らした家で、現在2階は収蔵庫になっています。
9.都幾川
美術館の窓から見下ろすことができる川で、丸木位里の故郷、広島の太田川の風景と似ていることから、夫妻はこの地に引っ越してきました。毎年8月6日の「ひろしま忌」には、参加者が平和への思いを込めて作った灯籠を流します。